どくどく記 〜読書と独学の記録〜

読んだ本の記録と、考えた事のアウトプット。

大学教育を活用できなかった後悔

 

大学教育の意味も価値も、ロクに理解しないまま、受験を単なる「偏差値ゲーム」と捉えていた。

例に漏れず、入学後は遊び呆けた。授業に出ないで、効率よく単位を取ることがカッコイイと思っていた。酒と麻雀の日々だった。

時には、言い訳がましく呟いてもみる。「たしかに授業には出なかったが、その代わり、学友と夜遅くまで議論したものだ」と。

そんなもの、「議論」と呼べるかさえ怪しい戯言だった。ただの思いつきを、ああでもない、こうでもない、と感情のまま主張し合っただけ。居酒屋で管を巻く呑んだくれと、本質的には何ら変わりない。

後悔している。

大学時代に対して抱く後悔は、大きく分けて2通りある。「もっと遊べば良かった」と、「もっと学べば良かった」と。僕は後者だ。

 

巻き返せる、とも思われない。学ぶべき時に真剣に学べなかった者は、然るべき取り組みを重ねてきた者には、一生追いつけないだろう。

だが、そのことは、今から学びを始めない理由にはならない。後発でも、周回遅れでも、とにかく進めば、進めるのだから。自分自身で進む意志があるかどうかだ。

それに、どれほど能力の高い者でも、全ての課題を一人で解決することは出来ない。万能な人でも、時間的な制約からは逃れられない。「やり残し」は、常にあるはずだ。

だから、圧倒的に先を行く者たちの功績を羨みつつ、彼らが制約のために取り組めなかった「残された課題」を見つけ出し、それに取り組むことくらいは、僕にも出来そうだ。

独学の道は長い。

 

焦る独学者とシェアしたい聖書の言葉・「シラ書」より

 

お前のために定められていること、それを熟慮せよ。

( 旧約聖書「シラ書〔集会の書〕第3章22節)

 

一人で黙々と独学に取り組んでいると、時々「自分の能力は低いのではないか……」「成長速度が遅すぎるのではないか……」と悩むことがあると思います。そんな時、上の言葉を思い出してほしいのです。

これは、旧約聖書続編*1に含まれる「シラ書」という書物の一節です。新共同訳版には、この一節を含む意味段落に「謙虚」という小見出しがついています。

22節の文脈を把握するため、前後の部分を引用してみましょう。

 

17 子よ、何事をなすにも柔和であれ。

そうすれば、施しをする人にもまして愛される。

18 偉くなればなるほど、自らへりくだれ。

そうすれば、主は喜んで受け入れてくださる。

19 身分の高い人や著名な人は多い。

しかし、神の奥義は柔和な人に現される。

20 主の威光は壮大。

主はへりくだる人によってあがめられる。

21お前の力に余ることを理解しようとするな。

また、手に負えないことを探究しようとするな。

22 お前のために定められていること、それを熟慮せよ。

お前に示されていないことを知る必要はない。

23 できないことに手を出すな。

お前に示されたことは、既に人間の理解を超えたものなのだから。

24 多くの者が早合点して道を誤り、

誤った推測で判断をゆがめてしまった。

35 目がなければ、光を見ることはできない。

知識がないのに、知ったかぶりをするな。 

 

文脈を踏まえると、21節の「お前の力に余ること」「手に負えないこと」や、22節の「お前に示されていないこと」は、 神のことを指すと思われます。また、23節の「お前に示されたこと」は、既に啓示された神の言葉のことを指すのでしょうか。

 

このことから、上の引用部は「神のことを知ることはできないのに、わかった気になって思い上がってはならない。自分の能力を過大評価せず、神の前に首を垂れ、謙虚になりなさい。そうすれば、神に喜ばれる」という意味の文章であると解釈します。

 

文脈に即した意味を把握した上で、ここからは「独学者」の視点で、ある程度自由に解釈を試みたいと思います。

 

独学者たるお前は、「お前のために定められていること」すなわち、自分の目の前にある取り組むべき課題に、真剣に取り組めば良い。

他人が、自分の及びつかない能力を持ち、活躍しているのを見聞きしたとしても、そのような能力や機会は「お前に示されていないこと」であるから、今は「知る必要はない」。

人間には、全てを知り、全てを行うことなどできない。せいぜい、自分に示されている分しか取り組むことはできない。「できないことに手を出すな」。

ひたすら謙虚に、「定められていること」に取り組め。

 

この解釈は、「どうせ大したことはできないんだから、夢見ることはやめろ」ということではありません。そうではなく、あくまでも自分の成長の可能性を肯定した上で、そのプロセスにおいて「今やるべき課題に取り組む」ということです。

自分が今できることに取り組めば良いわけです。人と比べて、「あいつはこんなにできる、あんなものを持っている」と羨んでも、仕方ないでしょう。それは、自分には「示されていない」ものですから。その点については、思い切ってあきらめることになります。ただし、将来の可能性まで諦めることはありません。

一方で、今の自分のために「定められていること」が必ずあるはずです。そして、それは既に目の前にあります。

今この時は、そのような課題について熟慮することが、独学者のなすべきことではないでしょうか。

 

3 

抽象的な解釈だけを述べてもわかりにくいですから、ここで、僕自身のことに引きつけて、解釈の説明をしてみます。

 

僕は、教養を身につけるために独学に取り組んでいます。「国際的な舞台で仕事をする」という目的のためです。

海外のエリート層と付き合うためには、教養人であることが求められます。相手から「知的につまらないやつだ」と思われたら、深い関係を築くことは難しい。人間関係の深さは、仕事の内容にも影響します。海外のエリート層が関わるような仕事の場で活躍したければ、教養を身につけるしかありません。

このことは僕自身が身をもって体感した話ではないですが、しかし、様々な人が異口同音に「教養が大切だ」と言うものですから、おそらく真実なのでしょう。

 

教養を身につけるため、この一年間、手探りで様々な勉強に取り組んで来ました。その取り組みの一端は、ブログやTwitterに投稿しています。学習内容は、世界史を軸に、宗教や数学、芸術や国際政治など。コミュニケーションツールとしての英語にも取り組んでいます。

いずれの科目も、学べば学ぶほど、自分の無知無明を思い知らされるばかりで、正直ひたすら苦しいです。しかし、目的のため、ここでやめるわけにはいきません。

 

目指す知的レベルは、元外務官僚で作家の佐藤優さんです。

ただ、自分があの領域まで到達できるとは、どうしても思えない。佐藤さんの本を読むたび、その知性の鋭さに感銘を受けると共に、自分の能力の低さを思い知らされ、絶望的な気持ちになります。

 

そんな強烈な不足感を抱えていると、つい「ウルトラC」を謳うような誘いに乗りたくなります。曰く、「聞き流すだけで英語がペラペラになる!」だとか、「ページをめくるだけで本の内容が頭に入るようになる!」だとか。

冷静な時ならば「馬鹿馬鹿しい」と見向きもしないものが、強烈な不足感が介在することによって、魅力的に見えてきます。

そんな時、ふと、シラ書の言葉を思い出すのです。

「お前のために定められていること、これを熟慮せよ」

 

目的へと向かう過程で、今、自分のために定められている課題とは何なのか。

英語を習得するために、何を熟慮するのか。効果があるかもわからない音声垂れ流しCDを高額で買うことか。違う。英語で知的なコミュニケーションを行うためには、一つでも多くの単語の発音と意味を正確に覚え、正確な文法に従って書かれた英文を一つでも多く暗唱し、論理的な構造を持った英語の文章を読み、あるいは自分でも書く作業を延々と繰り返すことだ。

読書の速度を向上させるために、何を熟慮するのか。10万円出して2日間のセミナーに参加し、ページを高速でめくるだけの技術を習うことか。違う。本を読むスピードは、本の内容に関してどれほど基礎知識を持っているかがものをいう。だから、遠回りに見えても、高校レベルの知識を一つずつ固めていくことが、最終的には速読を習得する早道になる。

一足とびに目標へ到達できることを謳う「ウルトラC」を金で買うのではなく、長く地道な成長プロセスの一段階を見つめ、それを踏み固めながら、たゆまず進んでいくにはどうすればいいか、熟慮することだ。

 

……とまあ、こんなことを頭の中で思うわけです。

 

「お前のために定められていること、これを熟慮せよ」

この言葉を思い出すと、今自分が真に取り組むよう要請されていることは何なのか、と立ち止まって考え直すことができます。僕の場合、それはひたすら地道な日々の勉強、であることが多いです。*2

ひたすら謙虚に、地道に日々の勉強を積み重ねた先に、大きな達成がある、と僕は信じます。

 

 

 

一つ前の記事を書いたら、急に筆が進んで、もう一つ書いてしまいました。現在、午前2時前。眠いです。

最後に本の紹介です。

 

併せて読みたい本の紹介

 

達人のサイエンス―真の自己成長のために

達人のサイエンス―真の自己成長のために

 

「大きな達成のためには、ひたすら地道な日々の取り組みが大切である」ということを教えてくれます。このような姿勢を、本書では「マスタリーの道」と読んでいます。

また、上達の過程では、結果がなかなか出ない時期=「プラトー」が長く続くものである、という主張についても注目です。長い「プラトー」の先に、ある時、急激に成長する時期が来ます。やっと報われた……かと思ったら、また成長が止まるように見える「プラトー」がやってくる。ひたすら、この繰り返し。しかし、これこそが成長の王道なのである。

こんな本です。質実剛健な生き方を目指す人におすすめです。ぜひ、Amazonのレビューも参照してみてください。大体内容がわかると思います(僕自身でも詳細なレビューを書くべきでしょう。が、眠いので一旦打ち切ります)。 

 

*1:「続編」は、教会によって「正典」とするか否かの見解が異なる聖書の部分です。

*2:中には、高額な音声垂れ流しCDや、10万円のセミナーへの参加が「自分のために定められていること」と判断する人もいらっしゃるかもしれません。まあ、何を信じるかは自由ですから、強い言葉で否定しようとは思いませんが……。

歴史を知ることは問題解決の「仮説づくり」に役立つ

  

現代の社会で起きている問題は、同時代を生きる我々の目には「これこそ新しい」と映ります。しかし、大抵の場合、現代の問題は真新しいものではなく、過去にも似たような事例が見られるものです。

一般に、人類にとって「完全に未知の問題」というのは、少ないように思われます。今から2000年以上も昔の書物にさえ、すでに「太陽の下、新しいものは何ひとつない」と書かれています。*1

例えば、国際経済の問題。「TPP」に関する議論は、主に19〜20世紀頃に活発に行われた「自由貿易と保護貿易の論争」が形を変えて継続しているものであると言えるでしょう。

あるいは、社会問題。私は寡聞にして存じませんが、「待機児童」や「非正規雇用」あるいは「高齢化社会」のような現代日本に特有と思われがちな問題も、おそらくは、過去の歴史の中に似たような事例を見つけることができるはずです。

 

ここで注意しなければならないのは、過去の事例の「単純なあてはめ」は通用しない、ということです。いくら過去に似たようなことがあったと言っても、当時の解決策をそのまま現代で行うことは適切ではないのです。

なぜなら、現代と過去とでは、様々な社会的条件が異なるからです。科学技術だって進歩しています。たとえ状況が「似ている」としても、「完全に同じ」ではないのですから、自ずと適切な解決策も違ってくるはずです。

 

では、どのようにして過去の類例に関する知識を、現代において役立てるのか。

それは「仮説づくり」においてです。

およそ、物事の解決策を考えていく場合、全く足がかりのない状態で取り組むことは困難です。そのため、まずは直観的なもので良いから「これが原因ではないか?」と“あたり”をつけ、その仮説が正しいかどうかを検証していく……という方法が取られることになります。

検証の過程で、問題の原因を正確に突き止めることができれば、あとはその原因を取り除けば良いのですから、解決策もわかる、ということになります。*2

この時、過去の似たような事例を知っていれば、「かつてはこれが原因だった。もしかすると、今起きている問題も、同じことが原因かもしれない」と“あたり”をつけることができます。

最終的に、その仮説が間違っていても良いのです。大事なのは、仮説を導入することによって、建設的に思考をスタートできる、ということです。

問題解決の第一歩となる「仮説形成のプロセス」において、過去の歴史に関する知識は役立ちます。

 

 

あとがき

最近、本を読んでばかりで書くことをしておらず、執筆能力が鈍っているなぁと感じました。そこで、まとまった文章を書くリハビリとして、とりあえず1000字程度のものを。

本当は、しっかりと「論証」にも力を入れ、論理的な構造を持った文章を書きたいところでしたが、思うようにはできず。まあ、完璧主義になって身動きが取れなくなるよりは、むしろ不完全なものを提出して、後から修正を加えていくほうが良いでしょう。

 

*1:旧約聖書「コヘレトの言葉」第1章9節

*2:もちろん、原因を取り除くことで生じる別の変化についても考慮する必要があります。ここでは、話を単純化して考えています。

【メモ】ルーズリーフを使って創造力を高める勉強法(と銘打ってみる)

使う道具

  • 精読したい本
  • ルーズリーフ
  • 青色ボールペン
  • 赤色ボールペン
  • (場合によって緑色などのボールペン)

※(ボールペンの色は何色でもいいが、僕は「青-赤-緑」の順番が一番しっくりくる。黒色ボールペンは、読み返す時に文字が「主張してこない」のであまり使わない)

  • (整理したい場合はバインダー)

 

方法

  1. 精読したい本を読みながら、重要そうなキーワードやフレーズを青色ボールペンでルーズリーフに書きつけていく。
  2. この時、1行おきに書くなどして、余白を多めに取るようにする。後から書き込みをするため。
  3. 読みながら頭に浮かんだことは、赤色ボールペンを使って、ルーズリーフの余白に書き込んでいく。
  4. ある程度分量が溜まったら、読み返して復習する。さらに考えが浮かんだら、緑色など別の色のボールペンで註釈をつけていく。

 

その他

  • 整理しやすいように、右上の「No.」には、読んでいる本や科目についての略号を記す。
  • 読んだ日付は「年月日」を6桁の数にして(2018年4月26日ならば180426)、ルーズリーフ本文中などに記しておく。思考の流れや展開を時系列で振り返れるようにするため。
  • 本を読みながら、時々立ち止まり、少し前の内容を思い出す(「検索練習」と呼ばれる勉強法)。
  • 文章の中に織り込まれた著者の思考をトレースしつつ、自分自身の頭でもその思考を捉え直し、内容の妥当性を検討してみる(主張に支える根拠の有無やその適合性、論理的整合性など)。

 

展望

  • 1つのまとまった思考を作り上げるためには、不向きな方法かもしれない。しかし、思考の起点を創造的に発想するには有効と思われる。
  • というのも、「バラバラになる」というルーズリーフの物理的特性からして「拡散モード」思考が誘発されるから。
  • ルーズリーフを作っているときは「集中モード」的な思考を使うわけだが、これを読み返す時には自然と「拡散モード」的な思考に切り替わる。(と感じられる)
  • このような「モードの切り替え」のためには、ノートよりもむしろ、バラバラになるルーズリーフの方が適しているのではなかろうか。(2つの「思考モード」については『直感力を高める数学脳の作り方』を参照)
  • この勉強法を通じて発想の源や方向性を見出した上で、「集中モード」的な思考を粘り強く進める必要がある。この段階では、きちんと綴じられたノートを使うべきかもしれない。
  • つまりこれは「創造的なアウトプットに先立つインプットのための勉強法」などと銘打ってもいいかもしれない。大げさかな。

 

着想を得たもの

  • 「青色ボールペンでキーワードなどをルーズリーフに書きつける」という部分は、『青ペン書きなぐり勉強法』などから。オンラインでもその要点を読める。絶対忘れない「青ペン書きなぐり」勉強法 | プレジデントオンライン
  • 「赤色ボールペンで書いたコメントに、緑色ボールペンで註釈をつけていく」という部分は、ユダヤ教の教典「タルムード」の研究法から。佐藤優氏曰く、タルムード研究は註釈に対してさらに註釈をつけていくことで進めていくらしい。確か『読書の技法』で読んだのだろうか……あとで調べておく。

 

【メモ】ヨーロッパ近世史を学ぶ際のポイント

大前提

  • 「領土」と「王家」はイコールではない

→ヴァロア家がフランスを所有している、ハプスブルク家がオーストリアとスペインを所有している、など。

その後、ハプスブルク家の持ち物だったスペインが、ブルボン家(フランス)に移ったことに反対して、「スペイン継承戦争」が起こった。

 

日本について言えば、日本列島と「王家(皇族)」が「日本」として渾然一体のものとして体感される。

だから、近世ヨーロッパの複雑な国際情勢を理解しにくい。

(ローマ教皇を天皇、神聖ローマ皇帝を将軍と見立てて、ヨーロッパ各国を御家人とする。そうすると、日本の戦国時代の様相と似ているかもしれない。ちょうどこの時代を日本史でも「近世」と呼ぶし、というより、そもそも「近世」とは日本史用語だったかな……英語ではearly modernとある。

この比較は、あくまでイメージしやすくするための方便であって、単純にイコールで結びつけて考えることはできない)

 

主権国家形成の過程で、「領土」を基礎的な単位として「国家」がまとまっていくのだろうけど、このあたりは曖昧にしか理解できていない……。

 

これを踏まえた上で、ヨーロッパ内の2つの対立軸を抑えておく。

 

  • フランス(ヴァロア家→ブルボン家)と、ハプスブルク家(オーストリア、スペインを所有)は仲が悪い

「領土」と「王家」を比較してしまっているが、実際このように見えるから仕方ない。

【原因】どちらがヨーロッパを牛耳るか、という競争(ヨーロッパ内での事情)

これはイタリア戦争以来15世紀から続いた対立で、約250年間敵対し続けた。だからこそ、七年戦争の際、オーストリアがプロイセンと戦うためにフランスと手を組んだことが「外交革命」と呼ばれるほどの出来事として受け止められる。

 

  • イギリスとフランスは仲が悪い

【原因】どちらが海外貿易を牛耳るか、という競争(ヨーロッパ外での事情)

これについては、家絡みではなく「国家」同士の抗争に見えるので、割と理解しやすいかな?

「大航海時代」の最終的な勝者は、先駆者スペイン・ポルトガルではなく、新興国オランダだった。イギリスとフランスは、共にオランダと対抗して海外へ進出。その過程で、「北アメリカ」や「インド」において何度も対立することになっていく。

なお、ヨーロッパ諸国が海外に出た理由は、最初は「アジア産の商品の転売」が目的だったが、次第に「原料の確保」と「市場の確保」へと変わっていく。「転売屋」から「加工屋」へと転身していく。

インドについて言えば、最初はインド製の綿布を買っていたわけだが、次第に「これ自分たちで作れるんじゃね??」と思うに至り、北アメリカに綿糸プランテーションを作って「原料」を輸入し、イギリス国内で加工して、インドに売るようになった。

そして、イギリス国内で綿織物を加工する技術がハンパなく進展する過程が、いわゆる「産業革命」と呼ばれる。

また、アメリカのプランテーションに黒人奴隷が連れてこられたり、今なおカリブ海の国々の経済構造が「モノカルチャー」であったり、この時代の出来事が現代の世界にも続いている。

 

脱線しすぎたが……

ともかく、「フランスvsハプスブルク家」「フランスvsイギリス」という、2つのヨーロッパ内の競争構造を念頭に置けば、例えば「スペイン継承戦争と同時に、アメリカ大陸ではアン女王戦争が戦われた」というわけのわからん教科書の説明が、一応整理されて理解できてくる。前者は、ヨーロッパ内の覇権争い。後者は、国際貿易の覇権争い。

 

その上で、

  • プロイセン
  • ロシア

といった新興国に、フランス、ハプスブルク家(オーストリア)、イギリスがどのように対応していったか、という観点から、続く近代史を整理していけば良さそうだ。

 

それから、中世世界では重要なテーマの1つである「神聖ローマ帝国」の扱いについては、近世史では、とりあえず無視してもいいかもしれない。一応、神聖ローマ帝国の範囲内にオーストリアやプロイセンが入ってるわけだが、話がとんでもなく複雑になってしまうので、少なくとも最初の段階では考えないで良いと思う。

同様に、「ローマ教皇」の存在感も薄いので、とりあえずスルー。

というより、「神聖ローマ帝国」と「ローマ教皇」は中世的な要素であって(叙任権闘争、十字軍など中世のメインテーマとなる学習事項は彼らが主役だ)、

十字軍の失敗などを通じて両者の権威が失われ、変わって「王家」の存在感が強まった時代が、いわゆる「西欧近世」として位置づけられているのかな。

 

あるいは、こんなふうに整理できるかもしれない。

中世的世界は、それ自体として、1つのレイヤーにおいて存続している。ここには、依然として「神聖ローマ帝国」「ローマ教皇」が存在感を保っている。また、このレイヤーの中の出来事として「宗教改革」が起こる。

一方で、「近代的な世界」が生まれつつある。これは、宗教的・中世的世界から独立した「世俗国家」の世界。しかし、この動きは最初、「中世的世界」と混じり合って生まれる。イタリア戦争、三十年戦争などは、表向きは宗教をめぐる戦いだが、実態は「世俗権力の構想」だった。

そして、「中世」と「近代」の2つのレイヤーが絡み合っていた時代、それが「近世」と位置づけられるかもしれない。

(……と考えると、現在のイスラム世界は「近世的世界」として解釈できる。トルコ、シリア、エジプトのような「近代国家」が存在する一方、「カリフ」を立てるイスラム国のような「中世的世界の住人」も強い存在感を持っていて、両者が密接に結びつきながら混在している)

 

 

 

この一連のまとめの問題点は、「宗教改革」をほぼスルーしていることだが、それを織り込むのは今の能力では困難だ……引き続き学習を要する。

(例えば、オランダはハプスブルク家の領地だったが、彼らが独立を選んだ動機の1つとして「カルヴァン派の信仰を守るため」というのがあった。オランダが所在するネーデルラントという土地は、北部にカルヴァン派、南部にカトリックが多かったのだが、ハプスブルク家は北部にカトリックを強制しようとした。これに反発して、北部諸州を中心として独立戦争が勃発した。なお、カルヴァン派はその教義から、主に商工業者に多く受け入れられたので、毛織物業と交易で栄えていたネーデルラント北部に多くカルヴァン派が根付いていた……というような話)

 

 

ちなみに、今使っているのは『英語で読む高校世界史』。Amazonのレビューを見ると「自然な英語ではない」なんて評価も散見されるが、末席ながら歴史学の文献も読んだことのある元文学部生の立場からすると、特に問題なく読める英語だと思われる。

中国史だけは固有名詞に苦労するが、特にヨーロッパ史は慣れればスイスイ読める。重要な歴史用語には日本語訳もついているのが親切。いちいち止まらないで進められる。

 

【メモ】依拠すべき古典の選び方

 

「自分が依拠すべき古典を、どのように選びとるか?」

こんな問いを立てつつ、「古典」と呼ばれる作品をいくつか読んできた。 

 

しかし、この問いは、方向性を間違えていたかもしれない。

つまり、自分が古典を選ぶのではなく、古典がこちらを選ぶのかもしれない。*1

考えてもみれば、劣ったものが、自分より遥かに偉大なものを見極められるだろうか。狭い見識で、過去の叡智に判断を下そうなどと企むことは、とんだ思い上がりであった。

 

選ばれるための下準備は必要だ。

古典そのものを読んでいなければ、選ばれることもない。時間をかけてでも、まずは様々な古典を直に読んでみることが必要だろう。

過去全ての古典を網羅するには及ばない。そんなことは不可能だ。

相性の良さそうな作品をピックアップして、面白そうなところだけ目を通す、くらいの読み方でもいいと思う。ここには、まだ自分の選択の余地がある。

あるいは、高校や大学の授業で学んだ古典の一節も、1粒の「種」となって蒔かれていることと思う。

 

ある時、記憶の淀みの中から、いつか読んだ古典の一節が立ち現れてくる。

ざっと流し読んで、すっかり忘れてしまったはずの言葉なのに、人生の様々な場面で、自分の内側から、突然、古典の言葉が語りかけてくる。

それこそ「古典がこちらを呼ぶ声」であるように思われてならない。

 

見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。(ヨハネの黙示録3章20節)

 

 

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*1:「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」ヨハネによる福音書15章16節

予定通りには進まない読書と独学

 

2月と3月はブログをサボっていましたが、まあ別に仕事でも義務でもありませんから、よいのです。書ける時、書きたい時に、雑多に書いていこうと思います。

 

西部邁さんの『保守思想のための39章』を精読していく計画を2ヶ月ほど前に立てたのですが、 

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生来の中途半端な完璧主義が災いし、丁寧にノートを取りながら読もうと思ったが運の尽き、いまだに第2章で止まっています。その間に、他に読みたい本を見つけては次々と手を伸ばし、結局予定通りには進みませんでした。

まあ、長い独学の旅路では、時にこんなこともあるでしょう。

 

ところで、西部さんの最後の著書は『保守の真髄』だと思っていたのですが、その後、『保守の遺言』が発売されました。こちらも買って、軽く一読してあります。主張の要点は、『39章』とそう大きくは変わらないため、どれか1つを深く読み込めば、他のものは容易に読めそうです。

 

独学のテーマとして掲げていた「情報セキュリティマネジメント検定」については、申し込んだ後に料金の支払いを忘れてキャンセルになる、というアホをやらかしてしまい、ひとまず中断しています。

 

今はと言うと、世界史の教科書の英語版を読んだり、その過程で英語に難があるのを再認識して英文法を学び直してみたり、一方では仕事に関係する本を熟読し始めてみたり、漢文の素読をやろうと思って日々書店で教材を選定したりと、色々試してはいますが、なんとも迷走している感が否めません。

 

とにかく、1つの勉強テーマを継続できないのが悩みであります。

これは大学受験の頃からずっと抱えている悩みです。

 

この弱点とうまく付き合うため、「1つのテーマを勉強する期限を先に決めてしまい、飽きる前に違う勉強を始める」という方法を考えたことがあります。

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外形的には、短いスパンで様々なものをつまみ食い的に勉強するように見えるため、今の「行き当たりばったり・ジグザグ的な独学」と変わらないようにも思えます。

しかし、状況に流されてなんとなく勉強のテーマを変えるのではなく、「自分の意思で敢えてテーマを早々に切り替え、意図的にジグザクしている」という自負があるからなのか、勉強に向かう集中力が比較的維持しやすいのです。少なくとも僕個人には効果があります。

思うに、最近は勉強を計画的に「やめる」ことをしていなかったので、だれていたのかもしれません。『39章』にしても、「読んでいいのはこの期間だけ」と決めていたなら、もっと読み進めていたことでしょう。

 

 

それにしても、学ばないといけない、と感じるテーマが多すぎるのです。

一方で、使える時間はごく限られています。その矛盾がストレスとなり、これを解消するために、全く新しい本に手を出している節もあります。そりゃ、独学がジグザク走行にもなるわけです。

 

しかし、神ならぬ人の身である以上、構築しつつある「知」が完璧にいたることはありません。

少しずつでも知識を増やし、知恵を深め、その歩みを止めさえしなければ、何十年後かには、今より多少は目標に近づけていることでしょう。

そう祈って、今日もページをめくるのであります。

 

 

偏りを恐れない

 

「どんな偉大な思想も偏っている」と読んだのは、いつのことだったか。確かにそうだ、と思った。「あれもこれも読まなければ」という気負いが薄まり、楽になった。

 

自分の思想の偏りを正そうと、さかしく計算して、あちらでは『論語』を読み、こちらでは『聖書』を読み、昨日は『法華経』、今日は『資本論』、明日は『ヴェーダ』を読む……こんなことはやめた方がいいだろう。*1

人間の能力を考えれば、本当に依拠できる古典の数は少ない。作家の佐藤優さんは「2つ」と言っている。

人間の読解速度、理解力には限界があり、出版された全ての書物を読めるはずもない以上、「偏り」は受忍するほかない。

1人では決して完全に至れないからこそ、異なる背景を持つ他者との対話や議論が必要になる。

 

*1:とは言え、「実際にどのようなことが書かれているか」を確認するために、代表的な古典に目を通すのは悪いことではないとは思う。ISに関して論じるなら『コーラン』は読むべきだろう。

速読・多読ではなく熟読へ/本の選び方

 

速読は、基本的に読み返さない。印刷されている文字の形から、その意味するところをイメージとして読み取り、頭の中で次々と映像を流すように情報を処理していく。

これは、百マス計算を解いている時の処理に似ているように思う。

  • 時間をかけない
  • 直観的な処理
  • まっすぐ進み、戻らない

こんな特徴は、速読と百マス計算に共通しているのではないか。

 

一方で熟読は、必要に応じて何度も読み返す。難解な箇所をじっくり考えたり、全体を俯瞰して文脈の中で意味を見出そうとしたり、様々に工夫しながら読む。あえて時間をおいてから、また読み直すこともある。

これは、難解な数学の問題を解く時の作業に似ている。

  • 時間をかける
  • 意識的に思考して処理
  • 迂回し、引き返し、細かい点まで検討する

こんな点が共通している。

 

百マス計算をいくらやっても、難解な数学の問題を解けるようにはならない。

それと同じように、

速読でどれだけ大量の本を読んだとしても、一冊の古典を熟読することによって得られるものには届かないだろう。

大体、印刷技術さえない時代に、すでに現代より優れた知恵が生み出されているのだから、「読む量を増やせば知恵が増す」というのは明確に誤りだとわかる。

価値ある本を深く読まなければ、求めている「教養」には到達しないだろう。

 

 

では、価値ある本とは何なのだろうか。

価値を判断するためには何らかの基準が必要だが、最初はその基準自体がない。人の評価に頼ることになるので、問題は「誰の評価を聞けばいいか」ということになる。

本の帯に書いてある「必読!」はあてにしない。あれは単なる売り文句だ。

新聞の書評欄はどうか。これもあてにならない。評者の読解力や知識水準を見極めなければならないので、近道どころか二度手間になる。Amazonの評価、あるいは書評サイトも同じことで、参照する必要はないと思う。

(ただし、自分の中に「基準」を作ることができれば、参考程度に他人の書評を利用することは可能だろう)

 

となると、個人的によく知っていて、「この人の勧める本なら信頼できる」という人から紹介された本を読むのが一番良い。

大学の文献読解ゼミの必要性は、「読むべき本」と「その本の熟読の仕方」を教えてくれるところにあるのだろう。

 

あるいは、単純に「古典」を選ぶ。古典が古典として残っているのは、過去、多くの人々が評価してきたからだ。

本自体の価値はわからなくても、「時や場所を選ばず評価された」という実績が只ならぬものだ、ということはわかる。

ここに至って、ブックガイドの必要性が生まれる。つまり「この古典は、過去、どんな評価をされてきたか?」ということについてまとめてあるブックガイドなら、読むに値する。岩波文庫などには解説がついているので、それを読んでもいいと思う。

そして、ガイドや解説をたよりに、自分の問題意識に応じて「自分が読むべき古典」を選び取り、それを信じて熟読する。

 

読書を通じて教養に至る道は、これしかないだろうと思う。

 

西部邁『保守思想のための39章』を少しずつ読んでいく

 

先日、評論家の西部邁さんが亡くなりました。

川に飛び込んだとのことです。最後の著書となった『保守の真髄』の中で示唆されていたことではありましたが、こんなに早いとは思っておりませんでした。

ご冥福をお祈り申し上げます。

  

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