どくどく記 〜読書と独学の記録〜

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『君の膵臓をたべたい』映画を観て、小説を読んだ。その感想【ネタバレあり】


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妻と二人で『君の膵臓をたべたい』を観てきた。

いい作品だと感じたので、帰りに原作の小説を買って、翌日には読み終えた。 

君の膵臓をたべたい (双葉文庫)

君の膵臓をたべたい (双葉文庫)

 

 

結論から言うと、僕は映画の方が好きだ。

以下、その理由を書いていく。

 

※ネタバレ満載なので、少なくとも映画か小説のどちらかを楽しんでから読んでください。そのつもりで書くので、ストーリーや登場人物の説明は省きます。

 

0.感想の前提:どんな話だったか?

色々なストーリーの捉え方があると思う。

僕は『君の膵臓をたべたい』のストーリーを以下のように捉えている。

 

「他人との接触を避けて生きてきた主人公が、膵臓ガンを患った同級生との交流を経て、他人と関われるようになる物語」

 

以上の前提で、感想を書いていく。

 

 

1.原作にはない映画版の要素「時間の経過」

(1)最終的に他人と関わるようになった主人公

主人公は、他人との深い関わりを拒否し、本の世界に引きこもって生きてきた。しかし、桜良との交流を経て、最終的には桜良の親友である恭子と「友達」になる。

 

そこに至るまでの演出は、小説と映画でかなり異なっている。

 

小説では、最終章ではすでに「友達」になっていた。二人で一緒に桜良の墓参りをするばかりか、彼女の思い出の場所を訪れたりするほどの仲だ。

一方、映画では、最後のシーンでようやく主人公が「友達になってください」と言えただけだった。

 

しかし、僕は映画の方が感動的だな、と思った。

その理由は「時間の経過」にある。 

 

(2)桜良の最後の願いが叶えられるまでの時間

桜良が主人公に宛てた「遺書」には、「恭子と友達になってほしい」と書かれていた。

 

主人公は、いつ、この遺書を読んだのか?

このタイミングが、小説と映画とで大きく違っている。

 

小説版の主人公は、桜良の死後、すぐにこの遺書を読むことができた。そして、1年後には彼女と「友達」になっていた。

一方、映画版の主人公は、桜良の遺書を読むまでに長い時間がかかってしまった。その結果、恭子と「友達」になるまでの期間も延びた。

 

よって、「恭子と友達になってほしい」という桜良の願いが実現するまでの期間は、

  • 小説版では1年未満
  • 映画版では10年以上

これほどの違いがある。

 

(3)「カタルシス」による感動は時間が引き延ばされるほど大きい

「カタルシス」という言葉がある。

「抑圧の解放」という意味で、ストーリーの中で埋まっていなかった穴が埋まることによって生まれる感動を説明する言葉だ。

 

例えば、

  • 聡明だが貧しい少女を陰ながら支援してくれていた人物の正体が、最後に判明する。(あしながおじさん)
  • いなくなった母親を探しに出た少年が、長い旅路の末、母親と再開する。(母を訪ねて三千里)
  • 遠い土地での戦争に勝利した後、海で遭難し、10年に及ぶ冒険の末にようやく故郷へ帰還する。(オデュッセイア)

などなど。 

 

基本的に「カタルシス」の大きさは、そこに至る「時間の長さ」に比例する。

願いが叶わず苦しい期間が長ければ長いほど、それが叶った時の喜びが大きくなる。

 

 

この観点から『君の膵臓をたべたい』の小説と映画を比較すると、

映画版の方がカタルシスに至るまでの時間が遥かに長く、したがって感動も大きなものになった

と言える。

 

これが、僕が「映画の方が感動的だな」と思った理由である。

 

 

 

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2.映画版に残された「謎」

(1)桜良は「最後のメール」を読んだのか?

主人公が桜良に送った最後のメールに書かれた「君の膵臓をたべたい」という一文。

 

このメールを、果たして桜良は読んだのだろうか?

 

同じ一文は、桜良の遺書にも書かれていた。

二人で示し合わせて同じ文を書いたわけではない。

偶然、全く同じ言葉をお互いに向けて送っていたのだった。

 

もし桜良が主人公のメールを読んでいたなら、死ぬ前に「二人の心は通じ合っていた」とわかっていたことになる。

その直後に悲惨な最期を迎えたとしても、主人公からのメールを見ていたとすれば、まだ一抹の救いがある。

 

映画版において、主人公は、10年越しに読んだ桜良の遺書の中に「君の膵臓をたべたい」という文章を見つけ、「二人の心は通じ合っていた」と理解することができた。

では、桜良は?

わからない。映画の中では、桜良が主人公からのメールを開けたどうかは、明らかにされていない。

彼女はメールを読んだのだろうか……。

僕は映画を見終わった後、ずっとそのことを考えていた。

 

(2)小説版には「答え」が書かれてしまっている

僕は、映画を観終えてすぐ本屋へ直行し、『君の膵臓をたべたい』の原作を買った。

桜がメールを読んでいたのか、確かめたかったからだ。もしかすると、原作には書いてあるかもしれない。

 

答えは、小説に書かれていた。

 

複雑な気持ちだった。

僕はその答えを知りたかったはずなのに、しかし、やはり知りたくなかった。

「桜良はメールを読んだのか?」という「謎」が残っていたからこそ、この作品は僕の心に強く印象づいていた。

その「謎」が消えてしまった。

満たされたはずなのに、むしろ失ったようだった。

 

(3)わからないからこそ心に残る

「謎」は、視聴者や読者に想像の余地を残す。

「あの結末の後、どうなるのだろうか?」とあれこれ考えることもまた、作品を楽しんでいる時間の一部になる。

そうすると、作品と共に過ごす時間は、実際に観ていた時/読んでいた時よりも遥かに長くなる。

その結果、作品は人の心に残っていく。

要するに、全てはわからない方が魅力的なのだ。

 

小説においては、ストーリーの「謎」は全て明かされた。

映画では、ストーリーの重要な「謎」が残されたままだった。

 

それゆえに、僕は映画の方が「いい作品だな」と思った。これが第二の理由である。

 

 

3.まとめ

以上、『君の膵臓をたべたい』について、僕が小説より映画の方が好きだと感じる理由を書いてきた。

 

正直に言うと、映画を先に観たなら、小説は読まなくてもいいかもしれない。それほど、僕は映画版の方が気に入っている。

しかし、この記事で触れることはできなかったが、小説には小説の面白さがある。それは確かだ。

 

映画だけ観た人も、小説だけ読んだ人も、本記事を参考にして、もう一方に挑戦してみるかどうか考えていただければ幸いである。

 

 

小説版はこちら。

君の膵臓をたべたい (双葉文庫)

君の膵臓をたべたい (双葉文庫)

 

 

映画版公式サイトはこちら。

kimisui.jp