どくどく記 〜読書と独学の記録〜

読んだ本の記録と、独学のアウトプット。現在は情報セキュリティの勉強中。

『生の短さについて』その努力は何のためか?「終わりなき苦しみ」を捉え直す


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今回の記事は、僕の好きな古代ローマ人の本から。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

 

 

 

学ぶことは「終わりなき苦しみ」

学び続けることは苦しい。

新しいことを知れば知るほど、自分の知識の少なさに驚愕し、絶望する。

身に付けなければならない知識の領域は際限がなく、その終わりを見晴るかすことさえできない。

 

それでも、学び続けなければ。

そうしなければ、いつか溺れてしまうような気がする。

共にあるのは、焦り、苛立ち、不快感。

僕にとって、学びとは「楽しみ」でもあり、時に「苦しみ」でもある。

 

このような無様な姿を見て、古代ローマの賢人・セネカは何というだろうか。

 

彼の言葉に耳を傾け、今抱えている「苦しみ」の姿を、ほんの少しでも明らかにしたい。 

 

 

一つ得れば、もう一つ欲しくなる

この本、『生の短さについて』は、半年前に一読して以来、僕の心の中に根付き、「大切な古典」の一つになった。

蔵書整理中、かつて傍線を引いた以下の箇所が目に飛び込んできた。

彼らは欲望するものをあくせくとして手に入れようとし、手に入れたものを不安のうちに維持しようとする。

その間、もはや二度と戻らぬ時間のことはまったく念頭にない。

忙殺される何か新たなものが古いものに取って代わり、期待が新たな期待を刺激し、野心が新たな野心を目覚めさせる。

不幸の連鎖を断ち切る終わりが求められるのではなく、始まりが変わるだけなのである。(P.56-57)

 

ここ最近感じていた「終わりなき苦しみ」について記述された箇所だった。

今の自分に必要な一節だろうか、とぼんやり感じた。

 

 

わかりやすい例として、「お金を稼ぐこと」について考え、解説してみる。

収入を増やすために努力を重ね、ついに稼げるようになると、その水準に満足することなく、もっと稼ぎたくなる。

得れば得るほど、より大きなものが欲しくなる。

これが「期待が新たな期待を」「野心が新たな野心を」ということだ。

そして、金銭を得るための苦しい努力は終わらない。「もっと多く、もっと高く」と求めることをやめない限り、苦しみは続いていく。

 

 

次に、僕自身の事例に引きつけて解釈してみる。

知識を得れば、また新たな知識を求めずにはいられなくなる。

「足りない」と感じることが、不安を呼ぶ。その不安が、次の行動へと自分を駆り立てる。

新しいものを一つ付け加えると、まさにそのことによって、さらに「足りない」と感じる。そして、また不安が生じ、新しい本に手を出していく。

この終わりなきプロセス。……

 

 

セネカは言う。「その間、二度と戻らぬ時間のことは念頭にない」と。

その「二度と戻らぬ時間」こそが、人間にとって本当の「人生」である。

 

セネカによると、人生は本来、十分に長いものである。

しかし、人間が「終わりなき苦しみ」にばかり時間を使い、本当に大切な時間をないがしろにするからこそ、「生は短い」と感じてしまうことになる。

 

 

僕が学ぶ目的は何だったっけ?

「教養人であるため」というのがこのブログで掲げた目的だ。

 

しかし、実際のところ、主要な目的は他にある。

「自分と、自分の周りの大切な人たちの世界を、平穏のうちに維持すること」

これが僕の人生の課題であり、この課題を成し遂げるために、学びを重ねている。

 

でも、学ぶことに時間をかけるために、肝心の大切な人たちとの時間を捨てているとしたら、あるいは、そのせいで彼らと疎遠になるとしたら、この努力って一体何なんだろう?

 

……セネカを読むと、自分がやっていることの正当性が信じられなくなる。

それでいい。

自己を揺さぶることもなく、ただ「同意」だけをくれる本など、読む価値はない。

『生の短さについて』は、ある意味では自分の一部を破壊する本で、まさにそれゆえに「大切な古典」の一冊なのだ。

破壊なくして、新生はない。

 

 

一切は空しく「風を追うようなこと」

ついでなので、話をもっと根本的なところに進める。

 

最終的に、僕が「自分と、自分の周りの大切な人たちの世界を、平穏のうちに維持すること」を達成できたとする。

で、それが何なのか。 

 

意識の裏で常にリフレインしている言葉がある。

旧約聖書の一節だ。

わたしは顧みた。この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。

見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった。

太陽の下に、益となるものは何もない。

(新共同訳聖書「コヘレトの言葉」第2章第11節)

 

理不尽なことや、努力が無駄になるようなことが起こるたび、耳のすぐ後ろ側あたりから「これもまた風を追うようなことだ」とささやかれている気がする。

そんな風に感じるほど、この一節は深く心の中に染みついている。 

 

 

いつかはすべて消えるならば、この世界は何のために存在しているのか。

幼い日に抱いたこの疑問に、いまだ明確な答えを出せていない。

 

時に、適当な「答え」を掴んでは、

「これこそ、世界が存在する意味だ! このために生きよう!」

と決意してもみる。

しかし、結局のところそれは誤魔化しであり、また「空しさ」が舞い戻ってくる。

自分の内側から得た「答え」でなければ、肚の中には根付かない。

 

 

どうしようもない空しさを抱えながら、僕はなぜ、努力を重ねているのだろう。

この人生が終わったその先に、一体何があるのか。

「生の先にあるもの」と「今のこの苦しさ」との間に、果たしてどんな関係があるというのか?

 

手軽な答えを求めているわけではない。現世利益のカルト宗教はお断りだ。

この問いの答えは、わからなくていい。

 

人は、生きている限り、生きていかなければならない。

この原理は僕にとって絶対だ。

だからこそ、今日も学習計画に従って、楽しく苦しい学びを続ける。……

 

 

結局、よくわからないまま記事が終わってしまったが、まあこんなこともありますね。

 

 

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)