どくどく記 〜読書と独学の記録〜

読んだ本の記録と、独学のアウトプット。現在は情報セキュリティの勉強中。

読書に臨む3つのスタンス+α


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「趣味は読書です」という人は多い。

しかし、その人は読書に何を求めているのだろう。読書への取り組み方が一致していないと、同じ「趣味は読書」の人同士でも話が合わないかもしれない。

そこで、僕が思う「読書に臨むスタンス」を3つまとめてみた。

 

 

1.知識を得るための読書

仮に進歩というものがあるとして、人間が太古から現代に至るまで進歩してこられたのは、「知識を集積し、継承してきたから」に他ならない(「コレクティブ・ラーニング」と言うらしい)。

本は、その「継承」の過程で重要な役割を果たしてきた。今でもそれは続いている。

僕たちは、本を読む事で、過去の人間たちが苦労して作り出してきた「知識」を得る事ができる。

 

このカテゴリーの読書を重視する人は、あまり「趣味は読書です」と言わないかもしれない。「必要だから読んでいる」という意識なので、「趣味」とは見なさないだろう。

 

2.娯楽のための読書

本を読むことは、単純に楽しい。

小説を読めば、まだ知らないストーリーの展開にワクワクする。すでに読んだ物語であっても、その語り口や描写を何度でも味わい、楽しむ事ができる。また、再読すると以前に読んだ時とは異なる印象を得られ、それの違いを見出すのもまた楽しい。

新しい知識を得る事それ自体も、楽しみの一つだ。知的好奇心が満たされる。知らないことを知るのは、それだけで楽しい。

本について人と語り合うのも、楽しみの一つになる。時には共感的に、時には議論をかわし、本について語り合う。それから、また一人で読み直してみると、新たな発見をする事ができる。これもまた、楽しい時間だ。

 

「趣味は読書です」という人は、大抵、このカテゴリーの読書を主に楽しんでいるのだと思う。

 

3.生き方を考えるための読書

例えば、キリスト教徒が聖書を読む場面をイメージする。

それは「知識」を得るためだろうか? ある意味では、そうかもしれない。天国に行くための教えを「知識」と定義するならば。

それは「娯楽」のためだろうか? 確かに、聖書には読んでいて楽しいストーリーもある。だから、娯楽にもなっているかもしれない。

 

しかし、僕は「知識」でも「娯楽」でもない要素があると思う。

漠然とした言葉を使うことになってしまうが、彼らは、聖書を読むことを通じて「生き方」を問い直しているのではないだろうか。

「知識」と何が違うのか。「自分はどうするのか」という意識の有無だ。

 

「知識」は、第三者にそっくりそのまま受け渡す事ができる。*1

一方、「生き方」すなわち「今・ここにおいて、自分は何をするべきか?」といった問題は、誰かのコピーで済ませるわけには行かない。自分で考え、自分で決める他ない。

何に拠らなくとも答えを出せる人もいる。

しかし、そうでない人にとっては、判断の手がかりの1つとして書物を活用することは有効だ。

聖書は、イエスが説いた教えを伝えるものではあるが、具体的な問題の1つ1つに答えているわけではない。例えば、5人を確実に生かすために1人を殺すことは許されるか、なんて問題は出てこない。

それでも、そのような解決困難な問題を考えるヒントを見いだすことはできる。

 

このカテゴリーの読書を「趣味」と呼ぶ人はいないだろう。「生きること自体が1つの大きな趣味」という人なら別だが。

 

まとめ:本の「種類」ではなく「取り組み方」

他人と本の話をしていると「どんな本を読むか」という話になる事がある。

相手がどのような本を挙げてくるかによって、読書のスタンスをある程度は見極めることはできる。小説を読む、といえばおそらく「娯楽」だろう。新書をメインで挙げてきたら「知識」タイプだと思われる。

 

注意点としては、3つの「スタンス」は、それぞれどんな本にも適用できる、という事だ。

本自体に「知識のための本」「娯楽のための本」と色分けがされているわけではない。まあ、ある程度はそのような色もついていようが、塗り分けの最終決定は自分自身で行うことになる。読むたびにスタンスを変えることもできる。

先に挙げた聖書の例で言えば、

  • 知識:キリスト教文化への理解を深めるために読む。
  • 娯楽:イエスと弟子の物語を楽しんで読む。
  • 生き方:自分自身の問題について考えるために、イエスの教えを読む。

このような読み分けができる。

 

 

プラスアルファ

4.自分を誇示するための読書

勝手なイメージだが、少し意識の高い経営者の本棚にはドラッカーの『マネジメント』が綺麗な状態で置いてある、と思う。*2

もしかすると数ページだけ読んだかもしれないし、どこかで聞きかじった重要な部分にだけ線が引いてあるかもしれない。

そんなことは大した問題ではない。「自分をブランディングするために本の権威を借りる」というタイプの読書であることに変わりはない。

このような読書(ですらないと思うが)のためには、究極的には背表紙さえあれば十分ということになる。

 

批判的に書いているが、この批判は自分にも向く。

「教養人になりたいなら、これくらい読まないと!」と思って「ジャケ買い」した本が何冊もある。当然、まともに読めていない。今の自分には難易度が高すぎる。

これらの本は、実際に他人に見せているわけではないが、「他者の目線」を意識したことは確かだ。よって、一種の「自分を誇示するための読書」だと言えるだろう。

 

 

*1:とは限らないが、対比のためにそういうものとしておく。

*2:近藤麻理恵『人生がときめく片づけの魔法』でそのようなエピソードを読んだ気がするが、同書が手元にないので確認できず。