どくどく記 〜読書と独学の記録〜

読んだ本の記録と、考えた事のアウトプット。

積読本『我と汝』

 

蔵書整理をしていた。

ある本を前に、手が止まった。

我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1)

我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1)

 

  

いつだったか、書店を回っている時に「読んでくれ」と語りかけられたような気がして買った本。平明な言葉で語られてはいるが、内容は難しい。うまく理解することができず、結局途中で読むのをやめてしまった。

しかし、「自分にとって大きな価値のある本だろう」とは、今でも感じている。理屈ではなく、直感的に。

  

表紙の紹介文にはこう書かれている。

世界は人間のとる態度によって〈われ−なんじ〉〈われ−それ〉の二つとなる。現代文明の危機は後者の途方もない支配の結果であって、〈われ〉と〈なんじ〉の全人格的な呼びかけと出会いを通じて人間の全き回復が可能となる。

〈われ-なんじ〉と〈われ-それ〉が対比されることで、著者ブーバーの言わんとすることがなんとなく伝わった気がした。

〈なんじ〉と〈それ〉の違いは、自分が向き合っている相手を、自分にとってどのようなものとして捉えているか、の違いだろう。〈なんじ〉は、相手を大切な掛け替えのないものと見ている感じがする。〈それ〉は、代替可能で即物的なものと扱っている感じがする。

そして、〈われ-なんじ〉の関係性こそ、今の自分に不足しており、かつ欲しているものだろう……と感じた。

  

以前から、高等教育を受けた者には特有の「ひずみ」のようなものが生じている、と感じていた。どこに、どのように、とは言えないのだが、学歴とほぼ比例して、そのような違和感が増大する。中には、「ひずみ」が生じない人もいるだろう。また、これは僕の感覚でしかない。実際には、そんな「ひずみ」なんて無いのかもしれない。

ただ、世界を〈われ−それ〉として捉える見方こそが、「ひずみ」の正体なのかなと、『我と汝』を手にしてみて思ったのである。もちろん、何の証明も裏付けもない、単なる予感でしかないが。*1 

 

(180814Tu タイトル及び文章表現を修正)

 

*1:180814Tu 恋愛工学への「懸念」

〈それ〉という概念が「代替可能で即物的なものとして扱っている感じ」だと仮定して(あくまで仮定である)、具体例を探してみると、いわゆる「恋愛工学」の人間観がまさに〈それ〉ではないか、と思い至った。

恋愛工学における「恋愛観」(と呼んでいいのか疑問だが)には、ハマった人を不幸にする危険性がある。当然ながら、恋愛工学の「恋愛対象」にされる人も不幸になるわけだが、こちらは既にいくらでも批判があるだろう。

なお、ある対象について批判する前には、誠意として、批判対象の手法や前提を検証しなければならない。しかし、僕は恋愛工学についてこのような手続きを踏んでいない。よって、以下で展開する内容は「批判」とは呼べず、「懸念」くらいのものだ。そのことを前提に読んで欲しい。

恋愛工学のような、生身の人間との関係性を極端な形で抽象化し、数値化する考え方は、本人を不幸にする。なぜなら、目標に上限がないからだ。何らかの原理によって「ここまでで満足する」という限界を外部から与えられるならともかく、そうでなければ、際限なく数値目標の追求を続けなければならなくなる。さらには、他人との比較によって、その傾向は顕著になる。他人の数値が自分より1だけ上ならば、さらに2積み上げなければ気が済まなくなる。相手も同じことをする。その結果、無限に増殖することを欲する資本のように、異性を求める欲望も無限に増殖していく。しかし、現実の異性には限りがあり、自分の魅力にも限りがある。第一、いつかは死ぬ。最後には、膨れ上がった「叶わない欲望」だけが残る。有限な者が無限に至ろうとした時、行き着くのは絶望である。

 

恥ずかしながら、まだ本書を読んでいない。実に2年近くも「積ん読」状態になっている。