どくどく記 〜読書と独学の記録〜

読んだ本の記録と、考えた事のアウトプット。

本を買いすぎる人のための「本の買い方」を検討する

 

積読者の悩み

僕は本を買いすぎる。

つまり、読みきれないほどの量を買っている。次から次へと本が増えるので、「積読本」が減ることがない。

「積ん読」状態が気にならない人もいるだろうが、僕の場合は、心の中で「やり残してる感」を抱いてしまい、あまり気分が良くない。なんとかしたいとずっと思ってきた。 

そこで、このブログを始めるきっかけとなった『ヘッセの読書術』を参照し、本を買いすぎなくなるようなヒントがないか、探してみようと思う。

 

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ただし、『ヘッセの読書術』が扱う読書術は、あくまで「文学作品」を前提としている。その点は考慮する必要はあるかもしれない。

 

基本方針:2回目までは借りて読む

まず検討すべきは、以下の箇所だ。

君が二度読んで楽しんだ本は、それが効果であろうとなかろうと、ぜひとも買うべきである。

私の友人のひとりは、まず一回か二回読んでみて満足しなかった本は決して買わない。それでもなお彼はたくさんの本をもち、それらを買ってから例外なしに何度もくりかえして全部、もしくは部分的に読んで楽しんでいる。(P.17-18)

 

ヘッセは、本の真価は2回読まなければわからない、と言う。

読書は、しばしば「人との付き合い」にたとえられるが、2回読むまではいわば「デート」の段階で、相手=本のことをよく知っていくフェーズ。3回目からようやく「お付き合い」がスタートする、というイメージだろうか。

 

「買わずに読むって、どうするんだ?」という率直な疑問に対しては、

ある本を知って、初めて読むためには、どこでも公立の図書館を利用することができる。(P.19)

というわけである。

だから、「本を物色したい!」という欲を抱いたら、まずは図書館へ行く。あるいは、書店で気になる本を見つけたら、そこですぐ買わずに、タイトルをメモして図書館へ。

そして、図書館で2度読んだ本のうち、本当に欲しいと思った本を、買えばいい。

これが基本的な方針になりそうだ。

 

しかし、書き込みたい

次に、問題点の検討に移る。実践するまでもなくわかることだが、図書館を利用する方法には難点がある。

  • 新刊本は所蔵されていない。
  • 書き込めない。

 

新刊本をどうしてもすぐに読まなければいけない状況ならば、買うしかない。諦めて買おう。

 

後者の「書き込めない」問題については、僕にとって深刻だ。というのも、僕は基本的に「書き込み」を入れながら読書しているからだ。

それも、結構おびただしい量を書く。大学受験時代に読んだ『記憶力を強くする』は、使うペンの色を黒、赤、青と変えながら、とにかく書き込みまくった覚えがある。

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具体的に書き込む内容は、傍線を引っぱるだけのこともあれば、疑問に思った箇所を自分の言葉で表現し直してみることもある。あるいは、本の内容に反論することもあるし、著者の主張を受けて自分なりに発展させてみることもある。そして、時々書き込んだ内容を見返しては、そこに残された「過去の自分の考え」に対して、さらにコメントをつけたりもする。

このような主体的なプロセスを経ることで、本の内容を思い出し、記憶しやすくなる。これまでの読書習慣の中で、自然と身についてきたスタイルだ。

 

しかし、図書館の本には、書き込みができない。

買えば、最初から書き込みができる。効率のいい読書になる。

この点をどうするか。

迷いを胸に、再度『ヘッセの読書術』に立ち返ってみよう。

 

「効率的に量を求める読み方」への批判

ヘッセは、「速読で大量に読む」という読み方を批判している。おそらくは、その裏側にある「効率重視の読み方」という考え方に対しても批判的なのだろう、と感じる。

例えば、以下の部分。 

ただ一回限りの、義務的な、あるいは好奇心からする読書では、決して本当のよろこびや、深い楽しみを味わうことはできず、せいぜいその場限りの刺激的な、すぐさま忘れられてしまう緊張を楽しめるにすぎない。(P.17)

現代では美徳とされる「好奇心」が批判の対象であることに驚かされる。*1

人付き合いで例えるなら、好奇心からする読書とは、「有名人が街を歩いていたから、見に行った」「可愛い子が歩いていたから、声をかけた」というものだろうか。だとすると、確かに「本当のよろこびや、深い楽しみ」は得られないかもしれない。

 

僕は最近、あまりにも有名なギリシア古典文学である、ホメロスの『イリアス』と『オデュッセイア』を通読したのだが、これらの作品に対する僕の取り組み方は、まさにヘッセが言う所の「義務的な、あるいは好奇心からする読書」だった。

  • 「教養人たらんとするなら、この程度の古典は読んでおかなくてはならないだろう」という義務感

あるいは、

  • 「有名な本だから、どんなものなのか内容が気になる」という好奇心

これらの動機に後押しされながら、僕は『イリアス』と『オデュッセイア』を手に取り、なんとか読み切ったのだった。

一応、楽しく読むことはできた。特に『オデュッセイア』は、昔から好きだった「遭難・冒険物語」だったので、ワクワクしながら読み進めることができた(小学生の頃は『十五少年漂流記』を愛読していた)。

しかし、ヘッセの言うように、僕がこれらの作品から「本当のよろこび」や「深い楽しみ」を得られたとは思われない。

「読んでおかなければならない本を読んだので、満足した」という義務感の充足。そして、「とりあえず内容がわかって満足した」という好奇心の充足。得られたのはせいぜいこんなところか。僕が思い描く「教養人」の読書とは違っていると思う。

*2

本も人も、一対一のゆっくりした付き合いが好き 

大勢でワイワイ騒ぐ飲み会が苦手だ。あちこちで続けざまに色々な、刹那的な話題が持ち上がるし、また、絶えず人のグラスの空き具合やタバコの火に気を配っているから、心を落ち着けて料理の細かなニュアンスを楽しむ暇もない。

「みんなで盛り上がった」という一体感の他は、何も得られないと思う。ノリに任せてお酒をたくさん飲めば、健康にも良くない(以下、いくらでも批判できるので省略する)。*3

 

その一方で、気の合う人とカフェでゆっくりおしゃべりするなら、何時間でも楽しめる。話題は移っていくが、めまぐるしくない穏やかな展開だし、相手の声色や表情に意識を向ける余裕もある。

時には黙ってコーヒーを飲みながら、相手の言葉を咀嚼していてもいい。そうして腑に落としてから、自分の言葉を探し、またおもむろに話し始めてもいい。

そんな人との関わり方が、僕は好きだ。

 

本との付き合い方も、人付き合いと同じようにとらえてみる。

「たくさん読め! 速く読め! 人生は短いのだから、生産性を上げて、効率的に生きろ!!」というスタンスは、疲れてしまう。

時には、そんな読み方をせざるを得ない時もあるだろう。仕事に関連する知識を急いで身につけなければならない場合、速読する必要がある。

しかし、僕の場合、プライベートでもそうした読み方を続けていると、何だか、自分にとって大切なものが失われてしまいそうな気がして不安になる。

ゆっくりと、本と過ごす時間を大切にしながら、読書を楽しみたいと思う。

 

結局どういうこと?

話が脱線してしまった。流れをまとめ、ついでに結論も加えると、以下のようになる。

  • 買いすぎないためには、図書館を活用すること。
  • 問題は、図書館の本には書き込みができないということ。
  • たしかに、書き込みをすることで、読書の効率は上がる。
  • しかし、効率を追求する読み方自体が、自分のスタンスに合わない。
  • だから、新しい本を読み始めるときは、2回目までは図書館で借り、3回目に買うことにしよう。

ちなみにこれは「新刊本」には使えないし、図書館に置いていない本にも使えない。

そこでもう1つ、買いすぎ抑制のための案がある。

 

だが、それを書くのはまたの機会にしよう。今日はもう遅いので。

 

続きはこちら 

www.redphos.com

 

 

(180815W 文章表現を修正し、追記)

 

その後

相変わらず本を買いまくっている

「2回読むまでは借りて読む」という方針は、最初こそ実行していたものの、結局は書き込みたい衝動を抑えきれない。ポストイットを貼って代用してもみたが、書かないと読んだ気がしない。

努めてゆっくり読むようにしてもだめだった。むしろ、ゆっくり読む時こそ、著者との対話の結果を本の中に書き込みたい。逆効果であった。

 

それでも、以前に比べると買う量は随分減った。きちんと数えて比べたことはないが、半分以下まで抑えられているかもしれない。

もしかすると「買う量を減らそう」と意識し、そのための工夫を重ねること自体に、減量の効果があるのかもしれない。そう思って、今も「本の買い方」に関する工夫をし続けている。

新たな工夫については、別の記事を書いてまとめようかと思う。

 

*1:180815W

三木清「講義録狂」によれば、「好奇心は昔の思想家、アウグスティヌスやパスカルその他によって、人間の主なる悪徳の一つと見られた」とのことである。

*2:180815W

以下、結局のところ何が言いたいのかよくわからない文章が続く。書いた本人が読んでいても釈然としないのだから、おそらく、読者諸兄には理解不能だろう。消してしまいたい気持ちに駆られたが、過去の恥ずかしい文章を見返すことができる、というのは自分の知的成長の糧になりそうので、残しておく。

*3:180815W

職場の飲み会に関して言えば、最近は自分より若い人が増えてきたから、いわゆる「気配り」の義務からは解放されつつある。本当は、一人一人が好きなタイミングで適宜飲み物を頼めばいいし、タバコも勝手に吸えばいいと思うのだが、しかし「気配り」によって形成される集団の一体感の重要性も理解してはいる。悩ましいところである。