どくどく記 〜読書と独学の記録〜

読んだ本の記録と、考えた事のアウトプット。

速読・多読ではなく熟読へ/本の選び方

 

速読は、基本的に読み返さない。印刷されている文字の形から、その意味するところを「イメージ」として読み取り、頭の中で次々と映像を流すように情報を処理していく。

この処理は、百マス計算を解いている時のそれと似ているように思う。

  • 時間をかけない
  • 直観的な処理
  • まっすぐ進み、戻らない

こんな特徴は、速読と百マス計算に共通しているのではないか。

 

一方で熟読は、必要に応じて何度も読み返す。難解な箇所をじっくり考えたり、全体を俯瞰して文脈の中で意味を見出そうとしたり、様々に工夫しながら読む。時間をおいてから、また読み直すこともある。

これは、難解な数学の問題を解く時の作業に似ている。

  • 時間をかける
  • 意識的に思考して処理
  • 迂回し、引き返し、細かい点まで検討する

こんな点が共通している。

 

百マス計算をいくらやっても、難解な数学の問題を解けるようにはならない。

それと同じように、速読でどれだけ大量の本を読んだとしても、一冊の古典を熟読することによって得られるものは得られないだろう。

大体、印刷技術さえない時代に、すでに現代より優れた知恵が生み出されているのだから、「読む量を増やせば知恵が増す」というのは明確に誤りだとわかる。

価値ある本を深く読まなければ、僕が求めている「教養」には到達しない。

  

 

では、価値ある本とは何なのだろうか。

価値を判断するためには何らかの基準が必要だが、最初はその基準自体がない。人の評価に頼ることになるので、問題は「誰の評価を聞けばいいか」ということになる。

本の帯に書いてある「必読!」はあてにしない。あれは単なる売り文句だ。

新聞の書評欄はどうか。これもあてにならない。評者の読解力や知識水準を見極めなければならないので、近道どころか二度手間になる。Amazonの評価、あるいは書評サイトも同じことで、参照する必要はないと思う。

(ただし、自分の中に「基準」を作ることができれば、参考程度に他人の書評を利用することは可能だろう)

 

となると、個人的によく知っていて、「この人の勧める本なら信頼できる」という人から紹介された本を読むのが一番良い。

大学の文献読解ゼミの必要性は、「読むべき本」と「その本の熟読の仕方」を教えてくれるところにあるのだろう。 

あるいは、単純に「古典」を選ぶ。古典が古典として残っているのは、過去、多くの人々が評価してきたからだ。本自体の価値はわからなくても、「時や場所を選ばず評価され続けてきた実績がある」という凄さは理解できる。

ここに至って、ブックガイドの必要性が生まれる。つまり「この古典は、過去、どんな評価をされてきたか?」ということについてまとめてあるブックガイドなら、読むに値する。岩波文庫などには解説がついているので、それを読んでもいいと思う。

そして、ガイドや解説をたよりに、自分の問題意識に応じて「自分が読むべき古典」を選び取り、それを信じて熟読する。

 

読書を通じて教養に至る道は、これしかないだろうと思う。