どくどく記 〜読書と独学の記録〜

読んだ本の記録と、考えた事のアウトプット。

食事における「不完全さ」との付き合い

 

食事にはこだわりたいと思っている。自分なりの「理想の健康的な食事」像も、一応ある。

しかし、先日の記事で取り上げたように、理想を100%叶えることは難しい。現実には様々な制約がある。

具体的には、①経済的な制約、②社交的な制約、そして③娯楽上の制約が存在する。

 

1.経済的な制約

概して、良い食事は高い。

安い食べ物は、栄養価が低くカロリーだけが高いものが多い。そういうものではなく、野菜をきちんと食べようとすると、途端に出費がかさむ。

なお、「時間的な制約」もここに含まれる。

「良い食事を用意する時間がない」という問題は、多くの場合、金銭で解決できる。食材は配達してもらえばいいし、調理はやってもらえばいい。あるいは、昼休みにちょっと遠くの和食店に行きたければ、タクシーを使えばいい。

これらの解決策を現実に選べないのは、経済的な制約ゆえだろう。

 

2.社交的な制約

飲み会も含め、他人と食事に行く場合、「店や料理に関する決定権」を持てないことがある。勝手に決められた店で、食べたくもないものを食わなければならないことがある。

わかりやすいところでは「飲み会」だ。最近は「健康のために一杯目からハイボール」でも許されるようになってきたと思うが、やはり「とりあえず生ビール」の文化は根強い。

 

「この食事は、私の哲学に合わないので口にしません」などとやっても良いが、おそらく周囲からヤバい奴扱いされることとなり、その結果、人付き合いにおけるストレスが増大し、むしろ健康を害することになりかねない。

だから、他人とメシを食うときは、とりあえず何でも「美味い美味い!」とニコニコしながら食らっておくに限る。どちらにせよマイナスならば、「小さなマイナス」の選択肢で満足するほかない。

 

3.娯楽上の制約

食事は楽しい。美味いものを食べるのは人生の楽しみの1つだ。

そもそも、健康を目指すのは何のためか。「生存」のためだが、生きてさえいればそれで良いか。人生には楽しみが必要ではないか。

美味い食べ物は、健康に悪いこともある。それはわかっている。けれども、健康のためとはいえ、美味いものを食えなくなることは考えられない。

僕の場合、「白米」がこれに該当する。美味い白米、これほどシンプルで強い食材はない。コメは全てを包む。

もちろん白米がいわゆる「体に悪い」食材だとはわかっている。だが、僕は食う。美味いからだ。

 

「糖質」を減らした方がいいのはわかっている。

だが、毎晩、仕事で疲れて帰ると、食卓では美味そうなおかずたちが待っている。こいつらを、コメと一緒に思い切りかっこみたいのである。それは至福の時間だ。

そこで、妥協案として「ランチは糖質を抜く」ことにしている。ベストは夜抜くことなのだろうが、今の自分にできるのはこれくらいだ。

 

 

思うに、健康になるのは、不健康なことをするためではないか。

「目的」ではなく、「手段」としての健康であるべきだ。この観点を欠いた「健康論」は弱い。*1

 

 

*1:ちなみに、江戸時代に書かれた『養生訓』の健康哲学は、当時主流の儒教道徳を反映して「親にもらった体なので大事にしましょう」というものだった(ような気がする。要再読)。これはこれで筋が通っているから良い。