どくどく記 〜読書と独学の記録〜

読んだ本の記録と、考えた事のアウトプット。

三木清曰く読書には2つの種類がある

 

独学の旅を始めるにあたり、僕は最初に読書術に関する本を色々と読み比べてみた。その理由として、佐藤優『読書の技法』の冒頭部を引用する。

なぜ、読書術が知の技法のいちばんはじめに位置づけられなくてはならないのだろうか。それは、人間が死を運命づけられている存在だからだ。そのために、時間が人間にとって最大の制約条件になる。(中略)どんなに努力しても、知りたいことの大部分について、諦めなくてはならない。しかし、そう簡単に諦めたくない。そのときに役に立つのが読書だ。他人の経験、知的努力を、読書によって自分のものにするのだ。

(同書、P.3-4) 

 

キーワードは、時間という制約条件だ。学びたいことの多さに比べて、独学に使える時間はあまりにも少ない。仕事や家庭を抱えていれば、さらに時間は限られる。少ない時間をうまく使うためには、正しい方法に基づいて進む必要がある。

 

では、正しい方法とは何だろう。 

学問に取り組むには、最初に、蓄積された過去の叡智を継承することが求められる。正統を進むにせよ、異端に向かうにせよ、まずは基本を踏まえなければ始まらない。*1

アカデミックな世界に身を置いていれば、教官や先輩の指導を受けながら、道を踏み外さずに継承を行なえるのだと思うが、独学者はこのような輪に入れない。そうなると、継承の方法は読書以外にない。

ゆえに、独学者は第一に読書の方法にこだわらなくてはならない。「何を、どう読むか」という問いこそ、独学者が答えを求めるべき最初の課題だろうと思う。

 

以上のような問題意識で、読書術に関する本を色々と読み比べてみた。その過程で、どうやら読書術には「種類」があるらしいことがわかってきた。

「種類」について明言的に教えてくれたのが、この本である。 

三木清教養論集 (講談社文芸文庫)

三木清教養論集 (講談社文芸文庫)

 

 

三木清は、戦前の哲学者だ。西田幾多郎に師事し、マルクス主義の研究なども行った。治安維持法のために拘留され、獄中死した。

 

三木は「読書論(b)」*2において、「本には適切な読み方がある」ということを述べている。

読書は唯一つの種類のものでないということに注意しなければならぬ。すべての書物を同じ調子で読もうとするのは無駄なことであり、有害なことでさえある。それぞれの書物を如何に取扱うべきかを会得することが読書の方法を会得することである。(p.48-49)

 

そして「読書には2つの種類がある」と続ける。

第一の種類の読書があこがれもしくは愛からの読書であるのに対して、第二の種類の読書は仕事としての読書と呼ぶことができる。(p.49)

 

この指摘は、読書術を比較していく上で重要な判断基準になる。

僕たちは普段、さほど深く考えず、本を読むことを「読書」と呼んでいる。しかし、三木が指摘するように、実際には本を読む動機や目的によって読み方がまるで違ってくるのだ。自分なりに言い換えてみると、

  • 「第一の種類の読書」は「ゆっくり、人間と、対話するように」読む。楽しむための読書。
  • 「第二の種類の読書」は「効率よく、情報を、処理するように」読む。考えるための読書。

こんな風にまとめられるだろう。真逆と言っても良い違いだ。一括りに「読書」とまとめられるかも怪しい。

実際、「第一の種類の読書」の立場で読書術を書いている人、例えば『遅読のすすめ 』の山村修さんは、「第二」のことを「参照」と呼んでいるし、『役に立たない読書』の林望さんは「作業」と呼んでいる。

 

世に出回る読書術の大部分は、「第一の種類の読書」か「第二の種類の読書」のどちらかを念頭に置いている。自分の目的に応じて、依拠するべき方法を見極めることが重要だ。僕の場合、独学に取り組むのだから、必然的に「第二」の路線になる。

一方で、娯楽としての読書も好きだ。この場合、「第一」の立場で書かれた読書術を参考にした方がいいだろう。……とはいえ、「第一」については特に難しい技法など必要なく、「ゆっくり、楽しんで読む」ということに尽きるのだが。だって、娯楽ですから。*3

 

「第一」と「第二」のどちらかに偏倚するのではなく、その時々で使い分ける。三木がいうように、「すべての書物を同じ調子で読もうとするのは無駄なことであり、有害なことでさえある」という立場を、僕も取る。

 

「第一」も「第二」も必要だということを踏まえた上で、じゃあ「独学のための読書術の本」は一体どれなのか?

僕が依拠しているのは、度々引用している佐藤優『読書の技法』だ。

読書の技法 誰でも本物の知識が身につく熟読術・速読術「超」入門

読書の技法 誰でも本物の知識が身につく熟読術・速読術「超」入門

 

 

佐藤さんは、本書で基礎知識の重要性を何度も訴えている。

まず正しい道、すなわちすでに確立されている伝統に即して本を読むことが重要だ。その意味で、読書は基本的に保守的なのである。本書で、筆者が高校教科書レベルの基礎知識をつけておくことを強調しているのも、それが知の伝統を押さえるために最も確実で効果的だからだ。(p.8)

上辺の読書量だけを真似してもまったく意味がなく、また真似することもできない。基礎知識があるからこそ、該当分野の本を大量に読みこなすことができるのだ。(p.43)

知は基本的に先人の遺産を継承したうえで成り立っている。このことを理解せずに高望みだけして、難しい本を力業で読んでも、知識はまったく身につかない。読んだ本の知識を身につける土台として必要になるのが、本書でくりか家し指摘している基礎知識である。(p.112)

 

この教えに従い、高校レベルの勉強をやり直している。

 

苦労しているのが数学だ。当時は「解ければいい」とばかりに、解法を暗記してただ当てはめていた。この怠慢のツケを、今になって払っている。

時間はかかる。それでも取り組むのは、ビッグデータ時代への対応のためだ。この時代は、インターネット上に現れる大量のデータが統計的に処理され、その結果が社会に影響を与えていく。そのような状況下で統計学を知らないままでいるのは、独学のための貴重な武器を捨てることになる。*4

また、生存の観点から見ても非常にまずい。物事が悪い方向へ向かっても、意思決定プロセスに統計的手法が使われていたら、何もできずに眺めているだけになる。批判するためには、理解している必要がある。

そして、統計学を理解するには数学の基礎知識が必要だ。やるしかない。

 

これで終わると、ちょっと悲観的すぎるので……もっと前向きな理由もある。この世界を動かしている物理法則を理解したいと思っている。可能かどうかは別にして、最終的には「超弦理論」を理解したい。その理論は、数学で表現されている。だから、数学を習得したい。うん、建設的で明るい。

  

そういえば、「第一の種類の読書」「第二の種類の読書」と似たようなことを以前考えていたのを、思い出した。

関連記事として挙げておく。

www.redphos.com

 

*1:森本あんり『異端の時代 正統のかたちを求めて』は、学問に取り組む上で得るところが多そうな本。是非とも読みたい。

*2:同書には「読書論(a)」も収録されている。こちらの要点は、①「読書法は、原理そのままを適用するのではなく、自分自身のものとして身につける必要がある」 ②「古人は濫読を戒めるけれども、読書法の習得は濫読から始めるしかない」というもの。いずれも「読書論(b)」に劣らず有用な指摘である。

*3:いやいや! 娯楽とはいえ、漠然と読むより、技法を意識して読んだ方が楽しいよ、という立場もある。それが『ナボコフの文学講義』だ。物語の構造を分析しながら読む、というスタイルを学べる。僕は現在、この読み方を習得しようとしているが、確かに面白い。絵画やクラシック音楽も、作品の構造を理解した上で鑑賞すると、また違った楽しみ方ができる。物語も同じことだろう。

*4:「情報技術はさまざまな産業分野に共通に役立つ汎用的あるいは横断的な「横串」の手法である。統計学も典型的な横串の手法であり、同じ統計的手法が経済学でも医学でもほぼ同様の形で用いられる」(竹村彰通『データサイエンス入門』p.16)