どくどく記 〜読書と独学の記録〜

読んだ本の記録と、考えた事のアウトプット。

『法句経』第四品「華」から、心に留めたい2節

 

四八

わき目もふらず

華をつみ集むる

かかる人をば

もろもろの愛欲に

いまだ飽かざるうちに

死はその支配に

伏せしむ

 

書店で手に取った『法句経』を、買うかどうか迷いながら立ち読みしていた時、この1節を目にして、購入を決めた。

 

「華」とは、おそらく現世的な楽しみのことを指している。それをいくら追求したところで、満足する時は決して訪れないまま、人は死ぬ。

ならばどうするか。ブッダは「智慧」を得よ、と言った。智慧とはつまり、この世のあるがままの姿を認識すること。諸行無常、諸法無我。そして、一切の執着から離れること。これが悟りであり、苦しみを終わらせる道である。

旧約聖書の「コヘレトの言葉」も、セネカの『生の短さについて』も、「現世的な楽しみは、一時的には快楽ではあるが、長い目で見れば苦の原因である」という仏教的な認識が根底に流れているように思う。だから、僕はこれらの書物が好きなのだろう。その教えるところが仏教に似ているから。結局のところ、根っこが仏教徒なのだ。

 

誰にでも、いつかは終わりが来る。僕にも来る。いつになるかはわからないけれども、とにかく、いつかは死ぬ。

その時に人生を振り返って、「空しいものに費やした人生だった」とは思いたくない。完璧とは行かずとも「まあ、これでよかったな」と思って死ぬこと。これが僕にとって最上位の行動基準である。

 

 

五〇

他人の邪曲を

観るなかれ

他人のこれを作し

かれの何を作さざるを

観るなかれ

ただおのれの

何を作し

何を作さざりしを

想うべし

 

他人の言行に注目し、「あんな悪いことをしている」「するべきことをしていない」と内心で糾弾してみたり、言葉に出して非難したりすることがある。

僕は、時にその行為は必要だと思っている。それは、社会全体としてより良い場所を作っていくためだ。子供を持つ身になった今、「発言する責任」というものを一層感じ始めている。これは仏教というより、儒教的な伝統から来る感情なのかもしれない。

しかし、外の世界の出来事を批判するのに一生懸命になるあまり、自分の身を修めることを忘れていたのでは、口先だけの人間になってしまう。これは、子供に見せる親の姿としては、最低レベルのものだ。

 

ブッダは言う。「ただ自分が何をし、何をしていないかを気にかけなさい」と。

実際の社会生活では、他人の行動も見ることになるし、その結果、諌めるべき時はそうするのが筋だと思う。子を躾ける立場にある親ともなれば、なおさらだ。

だが、心持ちとしては、あくまで「自分の身を修める」ことに集中していた方が良さそうだ。それで、ちょうどバランスが取れていくのだろう。

 

 

法句経 (講談社学術文庫)

法句経 (講談社学術文庫)