どくどく記 〜読書と独学の記録〜

読んだ本の記録と、考えた事のアウトプット。

「世界を把握したい」とはどういうことか

 

f:id:redphos:20190130223217j:plain(三浦和人『はじめアルゴリズム』第1巻より)

 

自分自身の視点から見た、この世界全てのイメージを、統合的に描いてみたい。

空間的スケールで言えば、素粒子(あるいはその構成要素)から宇宙全体、その外側まで。時間で言えば、宇宙の始まりから未来まで。その中には、全人類史も含まれる。宇宙の始まり以前については、それを認識しうる方法がなさそうなので対象に入れない。ロマン主義的妄想に浸りたいわけではないのだ。*1

「事実」さえ知れば満足するか。そうではない。可能なら、そこに何らかの「法則性」のようなものを見いだせればいいと思う。まあ、実際にそのような法則性があるかどうか、あったとしても、認識できるかどうかはわからないけれども。

 

「世界全てについてのイメージ」は、あくまで個人的なものだ。もちろん、その形成過程では本を読んだり、人と話したりすることによって、他者とも関わるわけだが、その成果物は完全に僕個人に属する。他者と共有はできない、原理的に。

なぜなら、唯識思想が説くように、僕が認識しているこの世界は、結局のところ僕の心的表象の域を出ないからだ。同じように、これを読むあなたの世界は、あなた自身の心的表象そのものである。万人に通用すると嘯く「普遍的な世界像」を僕は承認しないし、もちろん志向しない。そのような普遍性は無い。仮にあるとしても、人の能力では認識できない。ならば、志向しても無駄だろう。*2

この態度は、しかし安易な相対主義を目指すということでも無い。僕が掴むその世界像は、僕が認識しているこの世界においては、あくまでも真実である。ただ、他者の世界にとっては違う。……つまりこれが相対主義なのかもしれない。よくわからない。

ともかく、他者と分かち合うためではなくて、完全に自分自身のために、僕は世界像を描こう。もし他者と分かち合えるものがあるとしても、その時には「僕からはこう見える」以上のことは言えない、真の意味で誠実になろうとすれば。それ以上のことを言おうとすると独断になる。もっとも、実際の人間社会では、いちいち留保をつけて発話したりしないし、互いに独断を述べ合うだけでも大抵の状況ではコミュニケートできる。だから、上の話はあくまで原理である。

何にせよ、「普遍的な世界像」という虚しい妄想を追い求めるようなことは、僕はするまい。 人生は短い。

 

世界の把握。たびたび思うが、壮大すぎるテーマだ。字面だけが空回りしている印象もある。第一、そんなことをして何か意味があるのか?

別にない。ただ、自分がそうしたいだけだ。趣味というか、ライフワークの類である。だから、描いた世界像を何か別のことに役立てようという気はあまり無い。

全く無い、とは言わない。役立つこともあるだろう。特に、未来予測は行動方針を立てるのに役立つ。しかし、それが「世界を把握する」というライフワークの究極の目的ではない。「把握すること」それ自体が目的である。

 

重要なことだが、世界像を描き切る前に、僕は死ぬだろう。仕方ない。人は死ぬものだ。そのことは受け入れた上で、だからこそ、やりたいことをやって生き、死んだ方がいい。

僕にとっては、「世界を把握する」という荒唐無稽な取り組みが、やりたいことなのである。たとえ、それが永遠の「過程」に終わってさえ。

いやむしろ、永遠に「過程」であるがゆえに、幸せに生きられるのかもしれない。

 

*3

*4

*1:無自覚に「時空間」というカテゴリを使ったが、これ自体も問い直さなければならない。

*2:ここには矛盾があるように見える。僕は世界の原理として「唯識」を採用しつつ、その認識対象たる世界そのものは「客観的実在」であると前提しているからだ。うまく説明できないが、しかし僕の中ではこれらは両立している。

*3:世界内存在として物質的基礎の上に生きている自分が、逆に、世界を認識することによってそれを生成する、というような論理構成は、どこかで「再帰的」にならざるを得ないのではないか……という直観がある。この点はまだ詰めて考えていない。

*4:まあ、こんな深刻な調子で哲学ごっこしてみたけれど、結局は「世界像」を描けば描くほど毎日の生活が少し楽しくなりそうだなぁ、という予感がするだけのこと。「日々の暮らしを楽しむ」という根本を、いつも忘れないように。さもないと生きた屍になるぞ。