どくどく記 〜読書と独学の記録〜

読んだ本の記録と、考えた事のアウトプット。

9分喋った内容を書き起こすと約2000字

 

9分喋る分量って、結構多いんだなぁ、と実感。

慣れてくれば、思考を表現する媒体として話し言葉を使う方が効率が良くなるかもしれない。まあ、音声としての言葉には「やり直し不可」という制約があるので、書くことを捨てはしないが、何らかの役割に応じた「住み分け」はできていくんじゃないかと思う。

 

この配信を書き起こしてみた。

 

(以下、書き起こし)

 

今回は、自分の言葉の軽さについて、というテーマで話してみたいと思います。

自分の言葉、音声として語る言葉であったり、あるいは、文章として、文字で語る言葉であったり、いずれにしても、自分の言葉というものが、時に、ひどく軽く、あるいは薄っぺらく……そのように感じられることがしばしばあります。

 

これはなぜ起こるのか。

おそらく、言葉の意味というものを……何だろうな、自分自身の体験と結びつけることなく使ってしまっているから、ではないかと思います。

 

どういうことかというと、例えば、歴史について語る時。

歴史について語る時は、基本的には、教科書に書かれた知識、あるいは、教科書以外の本で読んだ知識を元にして話すことになるわけですけども、それらの知識というのは、自分自身の目や足で、苦労して獲得したものではない。せいぜい書かれた文字を読み取って、解釈して、その意味を理解した、というだけですね。

まして、基本的に世界史の知識なんかは、大学受験の、高校の時の勉強が基礎になっているわけですけども、この時というのは、いちいち歴史の出来事の「ひだ」に立ち入って、その現場で何が起きたか、その時々の人々がどう行動し、それがどのような結末に結びついていったか、という「歴史のミクロな現場」というものは、いちいち想像はしません。

しかし、そういうことを想像しなければ、そういうことを自分の、頭というよりむしろ心の中で描き、自分自身の体験であるかのように思い描かなければ、それはただ、言葉の表面的な意味を捉えたということにすぎません。

このような知識は、軽い。そんな風に思っています。

 

あるいは、そうだな、理科系の話であれば、うーん、まあ、ものが燃えるとはどういうことか。

これを、ただ教科書で文字で読んで、その文字だけを、文字として表されている言葉だけを暗記したとして、それは本当に燃焼、ものが燃えるということを理解した、とは言えないと思います。

まあ、ものが燃えるくらいだったら、日常的に目にする機会もあるわけですけれども、いやまあ、最近はガスコンロもないのか。そうですね。

とにかく、自分の目で見たもの、あるいは、自分の体験でなければ、ただ単に言葉の意味だけを覚えているだけでは、その言葉は非常に薄っぺらく響いてしまう。こういう側面が言葉というものにはあると思います。

自分自身と結びついていない言葉は、軽々しく聞こえる。

 

まあ、中には「体験できない物事」もあるわけで、例えば原子、えーと、原子というのは、物質を作っている細かな粒、のことなんですが、まあ、これは当然目には見えないわけで。顕微鏡でも見えないんだったかな? まあ、普通の生活の中では決して見ることができない。これが原子。

では、それを納得するにはどうすればいいか。

それは先ほどの、歴史の話とも通じるんですけども、自分の、自分自身の思考、によって納得する。

どういうことかというと、教科書には、原子というものがどのように発見されてきたのか、ということが書いてあるわけです。

それをただ、表面的にストーリーを読んで、ふーん、と理解したつもりになるのではなく、その時々に、まあ、原子なら原子、あるいは他のものなら他のものを発見してきた人々の問題意識、人々が「あ、この現象はどういうことなんだろう?」と思っていた感情、気持ち、というものを自分の中に再現する。

その再現した気持ちに立脚して、その気持ちからスタートして、思考を進めていく。

実際に実験をできるとは限らないので、その実験の結果は本を読んで借りてくるわけですが、ではその実験結果を、自分が初めて見たと仮定して、何を考えるか。この結果からどういうことが推測できるんだろう、と一歩一歩面倒でも考えていく。

こういうプロセスを経ることによって、原子の発見の過程というものを、自分自身の思考として体験し直せるわけです。と思っているんです。

まあ、こういうことを、今後僕はやっていきたい。

このようにして、自分の体験を増やしていくことによって、その体験と結びついた言葉からは、おそらく、少しは軽々しさというものは薄れていくんじゃないかな、と今思っています。

 

今回は、言葉の軽々しさについて、それから、その対処法。

対処法というのは、言葉を表面的に覚えて、そのまま出してしまうのではなくて、その言葉の奥底にある実体験、これを自分のものにしていく。

歴史なら、歴史の現場を自分で体験するかのように思い描いてみる。

理科系の知識なら、原子なら原子、というものが発見されたプロセスを、やはり自分のプロセスとして、自分がその場に立ち会ったと思いながら、その発見のプロセスを追っていく。

こういう一手間を重ねることは、その時は面倒なことで、時間もかかるし、疲れるんですけれど、長い目で見れば、こういう手間が本物の、うん、本物の知識、強い知識というものに繋がっていくんじゃないかと思っています。

そしてそれは、言葉の重みとしても現れてくることでしょう。