どくどく記 〜読書と独学の記録〜

読んだ本の記録と、考えた事のアウトプット。

『苦海浄土』人間として生きるための言葉のちから

 

目もみえん、耳もきこえん、ものもいいきらん、食べきらん。人間じゃなかごたる声で泣いて、はねくりかえります。ああもう死んで、いま三人とも地獄におっとじゃろかいねえ、とおもいよりました。いつ死んだけ? ここはもう地獄じゃろと──。

(石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』P.47)

 

磁力のような不可視の力で引きつけられ、わが意思とは関係なく読まずにいられない本がある。石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』はその1つだ。

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

 

 

水俣病をめぐる人々の姿を描くこの小説は、ある女性の目を通した一人称叙述を主体としながら、熊本弁で滔々と語られる当事者たちの証言、医師によるレポートの体裁をとった文章などが併記されることによって、一見、ノンフィクション風の作品にも見える。

実際、『苦海浄土』は第一回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれたらしい。だが、著者の石牟礼道子さんは受賞を辞退した。その事情について、批評家の若松英輔さんが考えを述べている。

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ノンフィクションが主に伝えようとするのは事件の「事実」である。石牟礼さんは、事実の向こう側にある「真実」を書きたかった。真実とは何か。水俣病患者たちの「苦しみ」だろう。

事実を語る言葉は、月を示す指のようなものだ。月そのものではない。指だけを見て「月を見た」とは言えない。

真実を語る言葉は、それ自体が月となり、暗愚の霧に閉ざされた人々の視界を照らし広げる。

 

水泳の池江選手白血病の報を受け、桜田五輪相は「がっかり」と発言した。

この言葉は、どう捉えてみても「期待していたもの(=メダル)が得られなくなって残念だ」という意味に解釈するしかない。1人の人間を「メダル1枚」という数字に置き換えて見ている大臣の本心が露呈した形である。

「人間の数値化」に対する批判は多いことだろう。だが、政治家の職務を遂行する上で、時にそのような非人格的な計算をすることは避けられないと思う。「数値化」自体を肯定的には捉えられないが、かといって全否定もできない。

非難されるべきは、致死性の難病という実存的な問題について、数値化の頭のままで捉え、発言してしまったことである。

国民の代弁者である政治家は、時に冷徹な計算をする必要があるとしても、だからこそ一層意識的に、人間味を保つよう努めなければならないのではないか。

ここで言う人間味という言葉は曖昧だが、「相手の事情を自分のことのように想像し、慮る」という習慣から自然と生まれてくるものだと思う。「共感」という言葉が近いかもしれない。*1

18歳の人間が白血病にかかる……このことを自分の身に引きつけて少しでも想像してみたならば、「がっかり」などいう言葉は出ない、はずだ。

*2

 

もっとも重要なのは、この桜田大臣の「失言」は決して他人事ではないということだ。僕たちも日常的に桜田大臣と同じような発想をしている。

つまり、人々の苦悩を、共感という段階を経ることなく、言葉や数字だけで捉え処理している。ばかりか、そのような発言を垂れ流しにさえしている。ただ単に、大臣ほどの社会的な影響力を持っていないから問題にならないだけである。

「共感を経ず、表面的に処理する」という思考のプロセスは、大量の情報にさらされながら生きざるを得ない時代の人間にとって、自然な習慣なのだろうと思う。悲しいニュースを見聞きするたびにいちいち胸を痛めていたら、とても正気ではいられない。

でも、本当にそれでいいのだろうか。

 

「水俣病のことなら知っている。工場排水に含まれる有機水銀が原因で発生した、いわゆる四大公害病の1つだろう」

確かに知っていた。小学生だって知っている。四大公害病といえば、水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそく、新潟水俣病……しかし僕個人について言えば、その内実に立ち入ってみたことは、ついぞなかった。

いや、水俣病のことだけじゃない。日々の暮らしを営みつつ生き死にする人間の生々しい苦悩を、自分の身に引きつけ、理解できないまでも思いを巡らしてみようと試みたことが、今までにどれだけあっただろうか?

この世界の出来事を、単なる文字や数字に置き換えて理解したつもりになってきた、そのようなまやかしがどれほど多かったか。

 

もちろん、文字や数字に置き換えてこそ見えるものもある、それもまた確かなことだ。最近出た本では『FACTFULNESS』が「数字の力」をよく示している。

一方、文字や数字によって現実世界を表現し直す過程で、必ず失われるものがある。その失われるものこそ、本当は人間にとって一番大切なのではないか?

……まあ、こんな話は既に語られ尽くしていて、今更何かを付け加えるような余地はない。ただ、実感としてそう思うようになった、ということを自分自身で確認しておきたいだけだ。

具体的な人間を、抽象的な記号によって処理し取り扱うことは、双方に苦しみを生む。相手の心にも、自分の心にも。 

水俣病を忘れ去らねばならないとし、ついに解明されることのない過去の中にしまいこんでしまわねばならないとする風潮の、半ばは今もずるずると埋没してゆきつつあるその暗がりの中に、少年はたったひとり、とりのこされているのであった。

(同書、P.33)

 

たった1冊の本を読んだからといって、他人の苦しみが理解できるとか、想像できるなんて安易なことは言えない、言えるはずがない。

しかし、理解しようと努めることはできる。

所詮この世の全ての苦しみを理解し尽くすことなどできないのだから、と言い訳をしながら、初めから何も理解しようともしないままでいて良いのか。良くない。何が、とは今は言えないが、何かが間違っている。

 

「水俣病」とか「白血病」とかいうのは、ただの言葉だ。それだけを覚えて舌先で転がして、何かを知ったり語ったような気になるのは危うい。

たかが言葉…………されど言葉、でもある。

言葉は、それが真実を語ろうとするものであるならば、現実の苦しみそのものを伝えることができるし、そのような言葉と真剣に向かい合うことで、苦しみの一端を感得することができる、僕はそう信じる。

『苦海浄土』を読んでいて、その思いを再確認した。

 

 

*1:この点に関連して『共感の時代へ―動物行動学が教えてくれること』という本を買ってあるが、まだ読んでいない。

*2:その後、大臣発言の全文が産経ニュースなどに掲載され、「がっかり」という言葉のみを切り取って誇張し批判するような報道姿勢に対する反発の声が上がっている。確かに、各種報道による大臣発言の切り取り方は、些か誇張が過ぎるように思われた。この記事を書いた時は、僕もそのような報道を見聞きし感情的になっていた部分があった。それでも、ブログ記事本文中の「大臣は人間の数値化をしている」という点については見解を変更しない。なぜならば、人間の本心は「細部の一言」にこそ現れる、と僕は思っているからだ。当該発言が全文中のほんの一部分であり、文脈上問題がなさそうに思われたとしても、他の言葉でなく「がっかり」という一言を選択したということは、そこに「メダル1枚が減ってしまった」という計算が働いていた、と僕は解釈する。ただし、「人間の数値化」自体を否定するつもりはない。この時代の人間ならごく普通にやっていること、あるいは、やらざるを得ないことである。その上で「だが、それでいいのか」と問うてみたのが、このブログ記事であった。